熊野三社巡り その5

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写真は、熊野那智大社の近くの青岸渡寺にある重文の鎌倉時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。青岸渡寺は西国三十三観音霊場第一番札所ですが、本堂の樋受けに、五七の桐の家紋が見えたので、お札の受け所の人に「秀吉さんとゆかりのあるお寺さんですか?」と、尋ねると。「信長さんのお寺の焼き討ちにあったのを、天正18年(1590)秀吉さんが 再建されたんです。」と、教えてくれました。写真の宝篋印塔は元享2年(1322年)の造立と書かれていましたが、685年前に作られた石塔は、苔むして、なんとも言えない重厚感と存在感がありました。人力だけが頼りの時代、こんなに大きな石をどうやって山頂近くまで運んだのでしょう?また、どうやって、石を組み立てたのでしょう?誠に信仰心の力というものは、凄いものです。

コメント

  1. まほろば より:

     私よか若いせいもあるんでしょうし、余裕なのかなぁ・・・いい旅をなされてますよねぇ。 お寺でも神社でもなぜか高い山の頂上みたいな場所にありますよね。こんな場所までどうやって運んだんだろ・・・って、私もいつも考えてしまいます。 でも、やっぱり人力で運んだんですね。心経山の御堂もみんなで運んだんですね。瓦とか柱とか・・。みんな手しごとなんですよね・・。頭が下がりますが、そうすることしかなかった時代なんですね。 私が子供のころ、地域の道も橋も地蔵堂も、地域のみんなが集まって共同作業で作った記憶があります。その頃は行政なんて何もしてくれなかったし、業者さんに頼むお金もなかったような・・。 でも、石とか材木とか、使えるものはそのへんにあるものを使いました。石を掘り出し、それを地蔵堂の基礎石にしたり・・・。 印塔の石材も、そのあたりで掘りだした…可能性はないのかなぁ・・。材質がまるで違うのかなぁ・・。石段なんて、そのあたりの石も使えますよね・・・。 ま。みんなで、モッコやシュラで運びあげた・・・のでしょうね。

  2. しわく より:

    まとまったお休みは、取れないのですが、日帰りとか、一泊二日で、西日本の神社仏閣巡りをします。出来れば観光化されてないところに行きたいのですが、全国的に知名度の高い所に行くので、なかなか、そういう訳には、いかないようです。神社仏閣を回って、石造りの記念碑・灯篭、その他諸々を見て、やはっぱり・・・と、感じる事があります。それは、年代の新しいほど、中国材で作られた、中国加工の物が、多いという事です。お墓でも言える事だし、予算もあり仕方ないことでしょうが、神仏の世界まで・・・と、一抹の寂しさを感じてしまいます。

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